NHK文化センター講座ブログ(Fieldwork1920)

NHK文化センター講座「関西モダン建築とおしゃれランチ」(りんくう・京阪守口教室)のページです。
2010年度の講座について
 2010年度は講座担当者松尾の都合により、NHK文化センター(京阪守口教室・りんくう教室)における講座開講の予定はありません。申し訳ありません。
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2009年10月(2回目)・11月(3回目)の講座−大阪・田尻町
 講師・北夙川さんよりレジュメが届き次第アップいたします。よろしくお願いします。
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2009年10月(1回目)の講座−芦屋
文豪谷崎潤一郎の「細雪」の舞台として知られる阪神間は、日本で最初の「郊外住宅地」です。
「郊外」とは「近代の産物」です。近代以前には、「都市」と「村落」しか存在しませんでした。ご存知のように、大阪や京都の都心には「町家」がずらりと並んでいたわけですが、それらは「住居であり店舗であり倉庫である」存在です。近世までの日本の都市は、「職住一致の街」だったのです。
 明治になって、「文明開化」により日本の都市は急速な「近代化」が進みました。それに従って、工業化と都市人口の急速な増加が起こり、必然的に都心部の住環境は急速に悪化していったのです。
 我が国最初の鉄道は、明治5年(1872年)9月12日(新暦だと10月14日)に、新橋駅〜横浜駅間で正式開業しました。そのわずか二年後の明治7年(1874年)5月11日には大阪駅〜神戸駅が開通しています。そして1896年(明治29)年3月11日に、早くも大阪〜神戸間は複線化されました。阪神両都の発展が大変なスピードであったことが偲ばれます。
 官設鉄道に続いて、1905年(明治38年)4月12日に阪神電気鉄道の神戸(三宮)〜大阪(出入橋)間が開業します。現代につながる「私鉄王国関西」の嚆矢です。これはわが国初のインターアーバン(都市間高速鉄道)でした。当時「高速運転は蒸気機関車」で、「電車は路面電車」と思われていたなかで、初めて高速電車によって大都市を結んだわけです。また官営鉄道が1067ミリゲージという軽便鉄道であったのに対し(そのため現在のJRに至るまで狭軌鉄道です)、阪神は国際標準規格である1435ミリゲージを採用しました。線路の幅が広いほうが車輛の大型化、高速化に有利であることはいうまでもありません。・・・

今回の資料→pdfファイル
今回のランチ→御影公会堂
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2009年9月の講座−京都
 
 

大阪、神戸と回って、今回はいよいよ古都、京都にやってきました。京都というと王朝文化、和の文化のイメージが強いですが、意外にもあたらし物好き、という顔も持っています。明治の初め、東京遷都により西京(遷都後、そうも呼ばれた)は衰退する一方でした。それに強い危機感を持った京都の人々は、欧米先進国の力に頼らず、日本人だけの手によって世紀の大事業「琵琶湖疏水」を完成させ、それによって作られる電力で日本で始めての路面電車も開通しました。同志社、平安女学院など基督教主義の学校も非常に古く、明治の初めには早くも開校しています。また、政治的にも革新勢力の強いところです。決して因循姑息な守旧派だけの都市ではないのです。ノーベル賞学者のほとんどが京都学派から誕生していることも、この都市の先進性、進取の気性を現しているでしょう。ですから、現存する近代建築の数でも、京都は東京、大阪に次ぐ三番目で、横浜より多いと言われています。それでは、京都都心部の近代建築を見て歩きましょう。なお、京都の洛中の地名表記は「上ル、下ル、東入ル、西入ル」で表されます。実際に京の街角に立ってご説明いたします。

今回の資料→pdfファイル
今回のランチ→東華菜館
今回のおまけ資料→
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2009年9月の講座について
 2009年9月の講座は、第二土曜日ではなく第一土曜日(つまり、9月5日)に行いますのでご注意ください。
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2009年10月以降の講座
 松尾です。2009年10月以降の講座案内が完成しました。今回の講座は北夙川先生単独で行う予定ですので、お知らせします。
講座案内
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2009年8月の講座−和歌山
  
  

 今回は和歌山市を回ります。江戸時代は徳川御三家、戦前は日本を代表する重要な工業都市・観光都市であった和歌山市も現在は、よく言えば閑静、悪く言えば寂れた地方都市となってしまいました。今回は近代〜現代のモダン建築を見学しながら地方都市再生の実情を見学したいと思います。テーマは「リノベーション」です。

今回の資料→pdfファイル
今回のランチ→小野町デパート
今回のおまけ資料→
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2009年7月の講座−神戸
今まで大大阪の都心部、船場・島之内地区(旧東区をメインに西区、旧南区にかけて)を三回探索しましたが、今回初めて大阪市を脱出、兵庫県神戸市へ参ります。
神戸は言うまでもなく日本を代表する大港湾都市であり、1868 年に開港して以来、常に海外から最新の情報が流入する都市でした。飛行機が国際交通の中心になってからまだ半世紀も経っておりません。長きに渡って「洋行」するとき、人は港から船に乗るものだったのです。
東京に対する横浜、大阪に対する神戸はいずれも巨大都市の外港であり、よく似ていますが、しかし当然違いもあります。横浜港は太平洋航路、つまりアメリカのサン・フランシスコやパナマ運河を通ってニューヨークへ行く航路、また南米へ行く航路などが主体だったのです。
それに対して神戸は、マルセイユやハンブルクなど欧州各港から地中海を経てスエズ運河を通り、インド洋からマラッカ海峡を通り、上海を経て神戸に至る、欧州航路の終点でした。
従って昔の本を読んでおりますと、東京在住の文士などでも渡欧するときは特急つばめ号で神戸に来て(東海道本線は新幹線と違い、東京〜神戸間なのです!! 国鉄時代、ヨドバシカメラの位置に大阪鉄道管理局がありましたが、その前身は神戸鉄道局だったのです)、オリエンタルホテルなどで一泊してから目の前の波止場から乗船、という描写によく出会います。
ですから、神戸は欧州の香りが濃い街ですが、横浜はアメリカンな雰囲気が漂っています(戦後、横浜港には進駐軍が入り、米軍基地がおかれた影響も大きいでしょう。関西は米軍の影響、関東と比べると非常に薄いですからね)。ジャズにしても、横浜のジャズはアメリカからダイレクトに入ったものですが、神戸のジャズはマルセイユ、上海を経たコンチネンタルなものでした。
現在では神戸市の中心ターミナルは三宮となっておりますが、往時は神戸駅こそが神戸の中心でした。本日は回れませんが、神戸駅は今でも1934 年に建てられたスクラッチタイル張りの近代建築で、正面にはステンドグラス製の大時計が時を刻み続けています。一番線には東海道本線の終点と山陽本線の起点を表す標章が見られます。かつては北陸本線の特急雷鳥なども、大阪駅ではなく神戸駅発着でした。
神戸が日本に於ける発祥の地、というもの、沢山あります。マッチ、ラムネ、ゴルフなどなど。
今でこそ日本中のちょっとした街にはソニープラザなどがあって気軽に輸入菓子を買えますが、僕らが子供の頃には「舶来食品」など極めて希少なもので東京や大阪でも滅多に手に入らず、神戸や横浜の専門店を探してようやく見つかる、そういうものでした。今はなき神戸の「ミッチャン」など、四十代以上の人は誰もが懐かしむ、それはそれはハイカラなお店でした。
世の中便利になりましたが、しかし「特別なもの」が「普通」になってしまうこと、ちょっと寂しい気もしますね。
今日はまず、旧居留地を歩きます。
開国当初、外国人は日本国内に自由に居住することはできませんでした。そのために定められたのが外国人居留地です。長崎に於ける出島と同じようなものでした。1868(明治元)年、イギリス人技師J.ウィリアム・ハートの設計によって碁盤目状の整然とした街として誕生、1899(明治32)年に廃止するまで、全部で126 区画に分けられ、colonial スタイルの木造洋館や煉瓦の倉庫などが建ち並んでいたのです。治外法権で、日本の裁判権の及ばないエリアでした。小泉八雲が来日して最初に働いたのが、居留地で刊行されていた英字新聞「ジャパン・クロニクル」であったことも知られています。
居留地解消後、住環境のよい山手に異人館が建ち並ぶようになりました。居留地に残る当時の建物は15 番館(重要文化財)のみですが、それ以降も貿易商社や海運会社のオフィス街として栄え、大正〜昭和初期のビルヂングが建ち並ぶ現在の居留地の景観を形作りました。
なお、居留地に住めたのは当時の大日本帝国政府と条約を締結した国の国民だけでした。清朝(中国)は未締結国だったので清国人は居留地に住むことができず、その西側(雑居地)一体に南京町を形成しました。
横浜の中華街は今でも職住一致の町で、実際に住んでいる人が多いのですが、神戸の南京町は狭いので今では商業ゾーンです。横浜華僑6000 人に対し神戸華僑は8000 人と言われていますが、神戸で華僑が多いのはトアロードから鯉川筋にかけての山手エリアとなっています。
因みに「華僑」とは中国籍(中華人民共和国若しくは中華民国)を維持している人を指しますが、最近は日本に帰化する人も少なくありません。移住地の国籍を取得した人のことは「華人」といって区別します。日本の場合は「中国系日本人」になりますが、日本的に改名することが多いので名前だけでは判らなくなってしまいます。


今回の資料→pdfファイル
今回のランチ→東天閣
今回のおまけ資料→6月の講座地図
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2009年7月の講座について
 悲しいお知らせです。講座を担当している松尾は、7月1日より某独立行政法人に異動となりました。このことに伴い、今月の講座は勤務先の都合(本務優先)により参加できません。8月・9月の講座は大丈夫です。
 今月の講座は北夙川のガイドに加え、京阪守口教室のセンター長先生が皆さんの整理を担当くださいますので、よろしくお願いします。
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2009年6月の講座−堺筋
今回は前回と同じく難波橋を基点に、堺筋を下ります。かつてと比べるとほぼ半減したとはいえ、非常に多くの近代建築がまとまって現存しているエリアです。
大阪のメインストリートである御堂筋は、關一市長により1927(昭和2 年)に完成しました。ということは、大正時代には御堂筋は存在しなかったのです。それでは大正浪漫文化が開花し、モボ・モガが闊歩した大大阪時代のメインストリートは、どこだったのでしょう? それがこの堺筋です。堺筋に面したデパートは、五年ほど前にとうとう三越を最後になくなってしまいましたが、かつては松坂屋、高島屋、白木屋、三越の四大デパートが、堺筋に面して覇を競っていたのです。
また今日午後は生駒ビルヂングの内部を見学いたしますが、その立地は堺筋と平野町通の南西角になります。大阪の町割が京都と同じく碁盤目であり、また紐育(ニューヨーク)のアベニューとストリートの関係と同様、南北の道が「筋」、東西の道が「通り」であることはこの講座でも毎回お話していると思いますが、南北の道である堺筋と、東西の道である平野町通の交叉点です。
現在の平野町通はオフィス街であり、住人も、また一般の商店もあまり多くはありません。巨大都市の都心ですから日中の交通量は激しく、人通りもありますが、繁華街ではありません。
しかし、大正から昭和戦前にかけての平野町は違いました。今の姿からは想像できませんが、心斎橋筋とともにハイカラでモダンな大大阪の繁華街だった、ということなのです。銀ブラ、心ブラ、元ブラ(神戸・元町)などとともに、平ブラという言葉もあったそうです。
生駒ビルヂングは1930 年の竣工です。つまり、御堂筋が既に開通しているとはいえ、まだまだ大阪一のメインストリートの位置を保っていた堺筋と、大阪屈指の繁華街である平野町の交叉点という立地は、東京で言えば銀座四丁目交叉点に当てはまるものであり、その時計台は服部時計店(和光銀座本店)に相当するといえましょう。

今回の資料→pdfファイル
今回のランチ→堺筋倶楽部アンブロシア
今回のおまけ資料→昭和16年の関西の鉄道地図、4月5月の講座地図
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